わたしたちは飽食のなかで生きているので、飢饉なんて遠い昔の話だったり、遠い国の人々の話だったりという認識をしてしまいがちです。
しかし、国民全体が今のような状態になったのは、戦後のことで、それまでは飢饉はそこかしこに存在していました。
現代の地球でみても、豊かな国が貧しい国から搾り取っているのでは?といった、耳を塞ぎたくなる現実があります。
この記事では、室町時代に京都を中心にしておきた大飢饉「応永の大飢饉」についてみていきます。
現代に生きる私たちから、あまりにも遠ざかってしまった「飢饉」という問題が意外と身近なことであると認識の片隅にでもおいてもらえれば幸いです。
目次
応永の大飢饉とは?
「応永の大飢饉」とは、室町時代・応永27年(1420年)を中心とする大飢饉のこと。
当時の将軍は、第4代将軍・足利義持でした。
この年以前から天候不順が続き、農村の備蓄が少ない状況で、応永27年の春からの旱魃(かんばつ)、秋の長雨により大凶作が起こりました。
しかし、大飢饉は、食料がなくなったため飢えるという単純な構造ではないのです。
以下で詳しく説明しますね。
応永の大飢饉はなぜおこったか?
飢饉は天候不順による凶作で食べるものがなくなって起こるという単純な図式で理解されがちなのですが、実は複雑な事情が絡み合っています。
19世紀アイルランドで起こったじゃがいも飢饉においても、飢えて死んでいくアイルランドの人々の横で、イギリスへむけての食糧を積んだ船が出発するということがありました。
悲しきかな、多くは人災なのです。
応永の大飢饉の原因は3つあります。
応永の大飢饉の原因
- 天災(天候不順)
- 人災(社会構造)
- 経済的問題
①天災の側面:天候不順
大飢饉の原因のひとつ目は、天候不順です。
日本の中世の時代は、地球規模の小氷期の時期であり、寒冷化していたといわれています。
応永27年の気候は、4~8月に干ばつ、9~10月の長雨や台風という、かなり絶望的な天候でした。
「祈雨奉幣」や「止雨奉幣」というように人々は何度も神に祈りを捧げましたが、その願いは届きませんでした。
ただ、応永27(1420)年のみに原因があるわけではなく、数年前から天候は不安定でした。もしも前年に収穫が安定していれば、蓄えを作ることもできたでしょうから。
②人災の側面:社会構造「公武統一政権」と「室町期荘園制」
大飢饉の発生の原因の2つ目は、当時の社会構造です。
「公武統一政権」とは?
当時は、武士の世の中。室町時代は朝廷が幕府に丸抱えされているような状態になっていました。
幕府は調停者のような存在であったため、武士たちの権益も守りながらも、公家や寺社の権益をも天皇の代わりに守らなければならなかったのです。
この構造が農村を圧迫することとなります。
農村から搾り取る「室町期荘園制」
荘民とよばれる庶民(村人)つまり、農業従事者たちは、もともと朝廷側にいる公家や寺社への税や役を納めていましたが、そこに武士勢力がやってきて、公方役や守護役といった負担も課せられてしまいました。
何重にも税が取られていたということです。
ここに荘園領主と守護勢力が互いに牽制しあいながらも、歩調をあわせて、庶民から搾り取るという構造ができてしまいました。
農村には余剰などなかったでしょう。
③経済的問題
3つ目は当時の社会の経済的な側面です。
京都は室町時代以前から、公家・寺社の拠点であり都市でしたが、鎌倉から室町(京都)へ幕府が移ることによって、政治拠点にもなりました。
そして京都は肥大していきます。
「量」の問題としては、人口が増え、巨大消費地と化していき、常に需要過多となり、物価が高騰していきます。
当時、都市と地方ではかなりの米価の格差があったといわれています。
「質」の問題としては、京都の人々が、消費者へと「質」的に変わっていったことです。
この背景には、全国の荘園(地方社会)で、代銭納が浸透したことが関わっています。年貢や公事などの税を現物で納めるのではなく、現地で売却・換金され荘園領主らには、銭が納められるようになったのです。
京都の荘園領主は、納められた銭貨をもとに必要物資を購入するようになりました。
需要過多になり、商品が足りない、つまり京都に商品を流通させれば儲かるのです。
儲けたい商人や農民は京都に物資を流します。
そして地方社会が混乱し、京都へ富が一極集中するという構図ができあがります。
このようにして、生産地である農村が先に飢える→難民が農村を捨てて消費地であるはずの都市をめざすという、一見パラドックスのような状況が引き起こされたのです。
飢饉のなか、人々はどう動いたか
大飢饉がおこるのには、タイムラグがあります。
実際に、地方社会に飢饉の暗雲が立ちこめ始めていた頃、京都中心部では豪華な本膳料理が並ぶなどの飽食と享楽の日々が過ぎていました。
この不均衡は拡大して大飢饉として一気に噴出したのです。
幕府や権力者の動き
将軍足利義持は、徳政としての禁酒令を禅寺を対象に発布、という現代人の感覚からすると意味不明なことをしています。
当時、神仏に祈るのは効果があるという共通認識がありました。
義持は禅宗的禁欲主義を進めようとして禅寺の風紀の乱れを取り締まるなどしていましたが、まぁ効果はなかったでしょう。
農村の百姓
秋は百姓たちにとってバトルの季節です。
年貢の損免要求をしなければならないからです。
例えば、兵庫県相生市にあった矢野荘。幾度もの交渉のすえ、最終的に50%の免除を勝ち取っています。
この年に限ったことではありませんが、農民たちは手元に残ったわずかな収穫物をもとにして、初夏に麦が実るまで生き抜いていかなければなりませんでした。
人びとは「有徳人」を求め、大都市・京都へ
春に死者が一番多くなると言われているように、収穫物を食い尽くした人々は、山野の山菜や河川の貝や魚を食べて飢えをしのぎます。
そこでも食べ物が得られなくなると、どこへ向かったのでしょうか?
地方都市、そして大都市、京都です。
なぜでしょうか?
当時の人々には共通認識として「有徳思想」がありました。
京都は「有徳人」の集まる場所と認識されていたのです。有徳人とは、酒屋や土倉のような富裕層のことで、富を持つ者は徳を社会に示さねばならない、つまり食べ物を分け与えろということです。
飢えた庶民は、ありがたや~という態度ではなく、権利として振りかざしてくるので、しばしば暴力沙汰になり死者もでました。
しかし、京都の物資も有限です。
物資がなくなり始めると、都市の低所得者から倒れていきます。
「洛中死体を踏みゆく・・」状態になり、疫病が蔓延。
・・言葉もでません。
応永28年夏頃には、この悪夢も収束しはじめ、餓死者・病死者の追善供養も行われました。
まとめ
応永の大飢饉。悲惨さに心が痛みます。
飢饉などの厄災は、さまざまな要因が複雑に絡み合っておこる場合がほとんどということがわかりました。
後世のわたしたちが分析して分かることもありますが、知らないうちに事態が深刻化していることなど当時の人々は知る由もなかったでしょう。
現代に暮らすわたしたちは、ほとんどが中世でいえば都市民のような生活なのかもしれません。
意外と脆弱な地面の上に成り立っているのかもしれませんね。。。