私は自分で言うのもなんだが、超絶ネガティブで思い込みの塊のような奴だった。俗に言う”思い込みの強い人”というらしく、狭い狭い視野のなかでまるで悲劇のヒロインのような感覚で生きていた。
後で知ったことだが、思い込みが激しい人の特徴にはいくつかあって、固定観念が強い、極端にネガティブ、他人の意見を聞かないし信じない、客観的に物事を見られない、視野が狭い、自分だけが不幸と思い込む、感情的に反応する、承認欲求が強いなどだそうだ。
そして根底には、自信のなさや自己肯定感の低さがあり、自分には価値がないという不安を常に持ち、否定されることを恐れるので、自分の小さな世界に閉じこもってしまうことがあるらしい。
当時は自分が思い込みの強い人だなんて自覚はなかったけど、今思えば、恐ろしいくらいに当てはまっている。笑
そんな私が変わる覚悟をしたのは、2018年の雪が降りそうな年の瀬だった。
小1になった長男の担任の先生との面談で、カミナリに撃たれたようなショックをうけたのだ。
ここからは私の思い込みの塊エピソードと、息子が小1の冬に落ちたカミナリ。その後の人生改革、そしてなぜ歴史を発信するのか?について語っていこうと思う。
冗長で申し訳ないが、お付き合いいただけると幸いである。
思い込みの塊エピソード①〜ここではないどこかへ行けば人生好転すると思っていた〜
私は幼少期から引っ込み思案で人見知り、不安や恐怖心が強く、時々身体がフリーズして声がでなくなる場面緘黙を発動していた。
けれど、家族の愛情をたっぷり浴びて、家ではイキイキと過ごした。友人もいた。勉強に困ることもあまりなく、真面目で陰気な優等生タイプだった。小学生時代はまだ自己肯定感も高く、楽しい思い出もたくさんある。
しかし中学・高校と、自己肯定感が下がり始めた。明るくニコニコしている人たちが羨ましくて嫉妬する反面、自分の存在が恥ずかしいようにも思えた。それでも周りの人たちは優しい人ばかりだったので、逆に心の中で申し訳ない気持ちにすらなっていた。
今思えば思春期らしい葛藤だったのだろうけど、ここではないどこかへ行って変わりたい願望はこの頃から芽生えていった。
高校生になったら…(変わりたい)
大学生になったら…(変わりたい)と。
実はこのクセ、大人になってからも続き…
大学生の頃は、専門学生になったら…
専門学生の頃は、大学院生になったら…
大学院生の頃は、引っ越しして子どもが産まれたら…
(なぜこんなに進学したのかは、後述しています)
子どもが生まれたあとは、この家さえ出られたら…
青い鳥症候群といえるのかもしれない。
私は全く今を生きていなかった。
現状を見ることも自分を変えることもせずに、環境が変われば全て解決してくれることを夢見ていた。
思い込みの塊エピソード②社会人になることから逃げ続けた
このあと私は大学→専門学校→大学院と進学することになるのだが、現実逃避ばかりしていた。
大学時代・楽しいモラトリアムから就活の闇へ
大学は、関西圏の歴史が学べる大学を選んだ。誰も私を知っている人がいないであろうというのが理由の一つだった。変わりたい、変わりたい・・そう思って臨んだ大学生活は、積極的に振る舞い親友もでき、楽しい日々を過ごした。卒業論文も大学の冊子に掲載されるなど、順調に進んだ。
しかし、進路に関しては暗雲が立ち込めていた。
就活は闇。私には恐怖しかなかった。やりたい仕事もなく、みんなが当たり前にやっていることができなかった。逃げた。就活とはみんな同じ格好をして当たり障りのないことを面接で言うものだと思い込んでいた。リクルートスーツの群れが気持ち悪かったし、グループディスカッションの練習の時に、久々に場面緘黙を発動した。
今思えば自分に向き合うのが嫌だったし、恥をかきたくなかったんだろう。面接で嘘がバレると思ったし、演技も下手だし、口下手だし、嘘ついてでっちあげた志望理由を平気な顔して話せる人間じゃないし・・・と、できない理由を挙げて逃げた。
・・でもリミットは近づいている。
私はモラトリアムを延長した。でも大学院ではなく、全く畑違いの栄養士の学校へ進学した。
専門学生時代の話。恵まれた環境を棒に振った時期
栄養の勉強は興味深かったし、クラスメイトも先生もいい人たちばかりの環境だった。
ただ、心は病み出した。私は少食でやや偏食、視線恐怖症や会食恐怖症もあり、調理実習だの、試食だのに抵抗があった。なんでも美味しそうに食べるクラスメイトが羨ましかった。周りのみんなが夢に向かってキラキラしているように見えて、すぐに場違いだという思い込みが強くなった。
それに、やりたいこととか目指すものがあって進路を決めた訳ではなかったから、やはり自分の足元、歩いている道に自信がなかった。
その場所にいるのが申し訳なかった。自分のために親身になって教えてくれること、仲間として認めて優しくしてくれること、そんな思いやりが逆に痛かった。心の中ではいつも「ごめんね」と言っていた。消えたいと何度も思った。
親にも大金を出させていたのが申し訳なくて、ATMに行くたびにみぞおちの当たりがドスンと鉛のように重くなった。毎日罪悪感と自己嫌悪で、みぞおちから重力に負けて落ちていった心と胃を砂袋のように引きずって歩く感覚で生きていた。
真面目さゆえ、課題や授業はしっかりやるものの、お酒に逃げる日々を過ごした。
そして2年引き伸ばしたモラトリアムもまた終わりの時期が近づき、進路を決めなければならない時期に・・。
私はまたここで向き合えなかった。もはや正しい判断ができなかった。
栄養士として働くイメージが全くつかめず、マイナスにばかり目が行き、私には歴史だ!なんて過去の栄光?にすがるようになった。周りは応援してくれた。NOと言っている心の声を押し殺して無理やり進め、大学院を受験。
国公立のレベルの高めな大学院を受けた。落ちるものと思いつつ、あとは引き渡すのみとなった空っぽのアパートの部屋で、書留を受け取った。
・・・合格通知だった。だけどそのとき流した涙は、嬉し涙ではなかった。
周りからの「おめでとう」や「すごいね」が痛かった。
今なら羨ましくてたまらない環境なのに、拒絶反応の大学院生活
晴れて?大学院生となった私は、知人の居酒屋でバイトをしつつ、アル中気味の店主と酒を飲みながら仕事をし、日中は大学院へ通った。
入ってすぐ、またもや勝手にアウェイ感を感じた。
すごくウェルカムな雰囲気で、かつみんな当たり前だが歴史が大好き。飛び交う意味不明な専門用語とそれを楽しむ人たち。見るからにクレバーで、自分の知識と情熱のなさを痛感した。
最高に大きな図書館とすごい蔵書。日本史研究室にも数々の史料。今ならよだれものだが、当時は歴史や大学院という場所へ早くも拒絶反応を示していた。
飲み会なども、バイトがあるからと全て断った。誰とも仲良くなろうとしなかった。
院の1年目の夏に帰省した際に、親に大学院を辞めたいと言った。でも親はだめだと言った。私はそれに従った。死刑宣告をされた気分だったが、親に逆らったことは今までなかった。
ゼミや発表も心を引きずり顔を出した。ただ、専門学校と違って、黙って課題やテストに合格したら卒業できる訳ではないのが大学院。修士論文というものを書いて合格しなければならない。
ずっと逃げ腰なため、特に調べたいこともなく、取り繕うだけの上っ面の研究では乗り越えられないことはわかっていた。怖かった。
向き合わなければと腹を括って、ゼミの研修旅行に参加したり、史料調査に参加したりもした。テンションを上げて、なんとか乗り切っていた。
親はお金を出してくれたけど、ドブに捨てている気がしてそれがただただ申し訳なかった。
転機が訪れたのは、初冬。実は私には(こんなメンヘラなやつだけど)大学時代から付き合っている彼氏がいた。
子どもができた。
思い込みの塊エピソード③同居の牢獄生活
その時私は25歳になっていた。
退学しようと思ったが、親はひとまず休学するようにと言った。(結局退学したのは息子が1歳になった頃。いまだに、大学院を辞められない・・・と息が詰まる夢をみて、汗かき目を冷ますことがある。笑)
子育ては田舎でと考えていたのもあり、旦那の実家のある田舎へ行くことになった。ここではないどこかへ行ければそれでいい、それで救われると切羽詰まっていたのだろう。何も考えることなく足早に引っ越す。
一旦はラクになれる・・と思ったのも束の間、待っていたのはさらなる地獄だった。
旦那の実家はかなりの田舎で、車がないとコンビニにもいけない、町にドラッグストアはなく、近所付き合いはまるで江戸時代、飛び交うのは近所の人の噂話・・・。
田舎とはいえ便利な住宅街で生まれ育った私にとっては、思っていたのと違いすぎた。極め付けは、当初は二世帯住宅だと聞いていたのに、待っていたのは「同居」だった。義父母と義祖父母との。赤の他人との同居。
私は内向的で、幼少期から誰にも邪魔されない家が大好きだった。プライベートを人に見せるなんてありえない、鉄壁に守られていたい、そんな人間で。部活の合宿や仲の良い友人との旅行でも胃腸の調子が悪くなってしまうほどだった。
同居なんて、向いているはずがなかった。(これは今でも思う)
外交的でどこでも生きていけそうな旦那には、私がそもそも向いていないことなんて分かるわけがなかったのだろう。(おそらく今もわかっていない。笑)
義父母も義祖父母も悪い人ではない。とても気を遣ってくれて、話しかけてくれていた。
しかし、基本的に関わって欲しくない私は無理をし続けることもできなくなって、家の中なのに会わないように会わないように、耳をすませて生活するようになった。
洗濯や風呂、夕ご飯など1階に降りなけれなならない時は足がすくんで、吐き気を催しながらそれでも行くしかなくて、顔をだす。
旦那は大抵仕事でいないので、心の中で「なんで他人と毎日一緒にご飯を食べなければならないのか」と思いながら地獄の時間を耐えていた。
車がないので、どこへもいけず、友達もいないので、インコと犬と話をし、近所に散歩に出ると、「誰や?」と奇異な目でみられ、誰にも会いたくなくなった。
今すぐここから逃げ出したい、でも逃げられない。まるで絶海の孤島に幽閉されたみたいだ、とベランダから連なる山々を眺める毎日だった。
長男が生まれても、良い方向へはいかず、母性本能や第一子特有の神経質が相俟って、家の全てが汚く思えた。息子を守りたい。触らせたくない。
でも、義父母や義祖父母を喜ばせてあげないといけないから、嫁はそうしないといけないから、そんな思い込みや旦那の話す一般論から、いやいやながら預けたりもした。
毎日の生活がすっかり嫌になり、義父母も義祖父母も大嫌いな人物になってしまった。(今は何とも思っていない。)全てが敵に見えた。うまく振る舞えなくなった。作り笑いもできなくなって、必要以上の会話をしなくなった。仲良くなろうなんて思わなくなった。
時々、だめだとわかっていながらも、臨界点に達すると旦那に愚痴を言ってしまう。だけどその度に、そんなこと言うなと逆に説教され、打ちのめされる。うまく生きられない自分に対する自責と周りのせいにする他責のループが止まらなかった。
実家に帰るのが唯一の救いだったが、遠方なためなかなか帰れない。長期休みのたびに帰っていたら、旦那に「もう学生時代じゃないんだぞ」と怒られた。
「私だって帰りたくて帰ってるんじゃない。家が快適なら帰らないのに。」という言葉を何度も飲み込んだ。救いの実家から戻る日が近づくとメンタルが不調になり始め、実家から帰るとしばらくの間、涙や過呼吸が襲ってきた。
逃げ出したい、消えたい、なんでなんで・・・
一生ここにいなければいけないの?
ここは自分の家ではないの?好きにできないの?安心すらできないの?
心の中でループする憤り。絶望しかなかった。
だけど子どもがいる。この子のために死ぬわけにはいかない。
第1子を産んだあと、2歳差で立て続けに授かり、いつしか私は4児の母になっていた。
車も運転できるようになったし、ママ友や知り合いもたくさん増えた。旦那に期待することもなくなり、義父母の目もあまり気にしなくなった。義祖父は天に召され、義祖母は老人ホームに入った。
そんな間も、メンタルの不調は続き、自己嫌悪の毎日。子どもに当たってしまう日もあった。自分の軸も子育ての軸もないものだから、情報に踊らされる。周りに「甘い」だの「わがまま」だの批判されるたびに打ちのめされた。
私はいい嫁でもないし、いい母親でもないし、いい妻でもない・・・。
自己無価値観がただただ襲ってきた。
お金も稼いでないし、私なんか服を買う資格はない、美容室に行く資格もない、食べ物もやることなすこと子ども優先・・・。義父母と食べる夕ご飯の前に階段を降りる足がすくむ。胃がずしんと重くなる。
自分は何もできない、何をする資格もない、ただ子どもを育てることしかできない。子どもがいなかったら、私なんて存在する価値のない人間だ。母親というアイデンティティがなかったら、私は・・・。
そんな感情が毎日渦巻いていた。
早く家を出たい、早く家を出たい。ここさえ出られたら…。
結局、私は自分を変えることはせず、全て周りのせいにして、自分だけが不幸だと思い込んでいた。
カミナリにうたれた2018年・冬
そんな私に変化が起ったのは、冒頭にも書いたが、長男が小1の冬だった。
担任の先生との面談で、息子の自己肯定感が低いことを知らされる。「自分はだめな奴だ」「自分を殺す」「俺が悪い」など。自分を傷つける発言が多いと。
・・・ショックだった。
私は息子の自己肯定感を上げる方法について、調べ始めた。
調べていくうちに、原因は息子ではなく、最も長い時間そばにいた、私にあるのではないかと気づいた。私が自分を下げるような言葉ばかり使っていたのだ。
その瞬間、私はカミナリにうたれた。
息子、そして子どもたちのために、自分を変えるしかない、と。
今まで私は、自分のメンタルの不調や環境を言い訳に、真っ白なキャンバスで産まれた子どもたちに、墨汁を垂らし続けていたのではないか?と。
こんなこと、もうやめなければならない。私はどうなってもいい。子どものためだ。私なんかのために子どもの人生を棒に振るわけにはいかない。
その日から、自分を変える挑戦がはじまった。
ここでようやく、自分の人生に向き合う覚悟ができたのだ。
サビきった扉の鍵を息子が開けてくれた。
その後の挑戦と新鮮な毎日
それからの私は、徐々にメンタルブロックを外し、言い訳をやめ、貪欲になんでも取り入れていこうと決めた。
たくさんの気づきが生まれた。
灰色だった世界が鮮やかに色づき出した。世界はこんなにも広く、カラフルなのかと感激した。
私に影響を与えたのは数えきれないほどあるが、特に断捨離、アドラー心理学の本『嫌われる勇気』、メンタリストDaiGoさんの放送・・・。
『嫌われる勇気』からは「もし〇〇だったら=可能性のなかに生きる=変わらないための言い訳」という考え方を知り、再びカミナリが落ちた。また、周りの視線が気になった時や、ひとり反省会をしそうになった時は「お前の顔を気にしているのは、お前だけ」と心の中で唱えるようになったし、全く自分の意見を持ってなかったので「他人の人生ではなく自分の人生を歩こう」と、常に「私はどうしたいの?」と自分を主語に問いかけるようにした。
さらに、メンタリストDaiGoさんの「自分を責める人は同じ過ちを繰り返す」がグサリと刺さり、自責をやめた。自責をやめてみると、それまで自責や反芻で占められていた脳みそのリソースが空き、不思議と問題に向き合える感覚が得られた。
また同じくDaiGoさんの「そんなに嫌いな自分なら打ち捨ててしまえばいい」との言葉に妙に納得し、嫌いなら捨てたって構わないよな、とある意味ラクになった。
そうやっているうちに、自己肯定感を上げることは最終目標ではないのでは?と気づきはじめ、いつしかあまり気にしなくなっていた。
長男が産まれてから子育てしかしてこなかったけど、母親であってもなくても自分の人生であって「子育てが落ち着いたら・・」なんてよく言っていたけど、落ち着く日なんてこない、自分は一生母親だと気づいた。
ちょうどその頃、旦那が単身赴任になったため、自分1人で子どもとの生活をやっていく覚悟が芽生える。重たいものを運んだり、田舎の宿命である虫退治(スズメバチ、ムカデ、ゴキブリ、カメムシ・・)にも向き合ったり、なんでも自分で決めるようになった。
長年のクセやメンタルの弱さと戦いながらも、手応えを感じる日々がうれしかった。
え?私でも稼げるんですか?〜自信のなさ・自分の軸のなさとの戦い〜
その後の転機は、2019年秋ころ。知人が開催してくれた在宅ワーク勉強会への参加だった。家で稼げる、子どもを見ながらでも稼げると知る。
この辺りからだっただろうか、イケハヤさんやしゅうへいさん、マナブさん、ヒトデさん、マコナリ社長、中田敦彦さんなどから学び始めたのは。
在宅ワーク勉強会で教わったのは、クラウドワークスに登録するまでで、コロナ下になり集まりは終わってしまったが、その勢いのままクラウドワークスでの受注やnoteをはじめた。
ただ、これも一筋縄ではいかず、プロフィールを書くだけでも一苦労だった。まだまだ自分にはアピールできることなんてないと思っていたし、自信もなかった。
また、何かを掘り出すには過去と向き合わなければならない。
過去を封印したい気持ちと戦いながら、少しずつ掘っていった。最初に使い勝手の良い栄養士、しばらくして歴史が掘り出された。それでも封印していただけあって、その頃はなぜだか分からなかったが、痛みが伴った。
クラウドワークスでは、文章を書く仕事ができそうだと応募してみた。当初はWebライターという言葉も知らなかったが、文集などで文章を褒められることも以前からあったし、毎日日記やあれこれを記録するのは昔から好きだったから。
さらに、ちょうど世の中はコロナ休校。毎日閉塞感を感じているであろうママさんのために、地元の歴史を調べてnoteにアップしてみることにした。
知識はほとんど抜けており、長文を書くことに慣れていなかったので、すごく苦労した。子どもを見ながら1週間に1記事が限界だった。
それでも、誰かのために文章を書くことにうれしさを感じた。
それから勢いでwordpressブログを開設したものの、テーマが決まらない。プロフィールを書くためにまた人生の深堀りをするも、自分は人の役に立てるのか?と思考は堂々巡り。下書きばかりで全く公開できない。
近所のママさんのために歴史の記事を書いた時に、あまりの知識のなさに愕然としたためか、メンタルブロックが薄れてきたためか、もう一度歴史を勉強したくなった。専攻は日本史だったため、ちゃんと学んだことのない世界史をまずは学び始めた。
細々とWebライター業をしながら、勉強。学べば学ぶほど知りたいことが増えていった。
身体の不調と娘の不登校で、さらに鍛えられる
ただ、子育てと仕事のコンフリクトに悩んだり、リーンゲイズや食べ物をいろいろ試しすぎたのもあって、夏には胃潰瘍になりかけてしまう。バナナすら食べられなくなった時、まだ死ぬわけにはいかないと身をもって感じた。自分のためにも子どもたちのためにも、まだまだやりたいことはいっぱいあると。
2020年の冬には、長女が不登校になった。義父母に育て方が悪い、世間体が悪いなどと私が言われただけではなく、しっかり学校へ行っていた長男にまで「兄のお前がしっかりしていないからだ」など意味不明のいちゃもん。この頃はさすがにメンタルは保てなかった。
ただ幸いなことに学校側はとても親身になって対応してくれて、不登校ののち母子別室登校になり、約10ヶ月で長女は学校に行けるようになった。
不登校期間は確かに辛かったし、母子登校では私が不登校になるんじゃないかと思った時もあったが、おかげで私自身の子育ての軸が明確になっていったし、母親として一歩成長したように思える。
子どものことでちょっとやそっとでは動じなくなったし、情報に踊らされることの害や、周りを頼ることの大切さなど身をもって知った。何より子どもひとりひとりに向き合うことの大切さ、困った時は子ども自身が実は答えを持っていることを知った。
10年ぶりのひとり時間
娘が学校に行きはじめて、ようやく10年ぶりのひとり時間がやってきた。
いい意味で、頭がおかしくなりそうになった。笑
その頃にはWebライターは休止していたので、ブログに再び向き合うことにした。書くのはかなり大変だったが、ひとり時間を無駄にするまいとパソコンにかじりついた。
だけどやっぱりペルソナはいないし、ゴールが見えない。読んでほしいような、誰にも読まれたくないような中途半端なものしかできなかった。
今思えば、内なる完璧主義の自分があれこれ文句をつけていたのかもしれない。アクセルを踏みながらブレーキをかけているような感覚だった。
そして私が身軽になったのをいいことに、周りが「働け」と圧力をかけてきた。
ブログでは稼げていなかったため、少し焦ったが、もう以前の私ではなかった。流されていやいや働きに出るなんてことはしない。
子どもの用事で頭を下げて仕事休んだり、義父母に頭を下げて預けるのも絶対に嫌だったので、在宅で稼いでやる!とWebライターを再開。
でも以前はあまり稼げなかった。それでは学ぼうと考え、Webライターラボに入会した。これが良い転機となって今に至る。
ずっと、お金を稼げない=自分には価値がないと思い込んでいたふしがある。お金を使うたびに(たとえそれが、子どもの食費であっても)心がチクチク傷んでいた。だから自分で稼げるようになっただけで、単純にうれしく、単純に自信がついた気がした。
今までを振り返って、後悔はない
超絶ネガティブで歪んだ世の中の見方をしていた思い込みの塊だった自分。振り回してしまった周りの方々に申し訳なかったなという気持ちもあるし、客観的にみてとても恵まれた人生を送ってこれたのは、周りのおかげとラッキーだったとしか言いようがない。
持って産まれたもんはある程度は仕方ないし、淡水魚が海水で生きられないのと同じように、合わない環境ってものもある。誰だって間違えることはある。
自己弁護する訳ではないが、今では後悔や過去の自分を責める気持ちはない。あの時はあの時なりに懸命に生きていたんだと思うから。今まで無事生きてこれてよかったとむしろありがたさをひしひしと感じている。奇跡に鳥肌がたつ。
全く自分のなかった根無草のような私にもだんだん自分の価値観、軸ができつつあり、根がはれて年々メンタルも安定しつつある。
肝心の息子の自己肯定感だが、万事解決という訳ではない。私が変わりはじめてから、息子は「自分を殺す」など激しいことは言わなくなったし、自分の頭を叩くようなこともなくなったが、いまだに「俺は損ばかりしてる」などのネガティブ発言やメンタルのアップダウンは否めない。
だけど、私はそれすら気にしていない。というか、彼自身ネガティブは自覚していて「母ちゃんが励ましてくれるからありがたい」というようなことも言ってくれたし、立ち直りも早くなった。毎日それなりに楽しそうだ。これからも彼は彼で折り合いをつけていけるだろうと私は信じている。
というか、ネガティブ自体は悪いものではなく、不安や悪く考える思考があったから人類は生き延びてきたわけで。そう思ったらALL OKとすら思えてきたのであった。
なぜ私は歴史を発信したいのか?
さて、ここまで長々と平凡な主婦の人生をお読みくださった奇特な方には感謝を禁じ得ない。ここで私が歴史を発信したいと思う理由を書かせていただきたい。
人生ここまで生きてこれたのは、いろいろな出会いがあったから。私を変えたのはもちろんだが歴史だけではないし、目に見える形で変えてくれたのは、むしろ歴史ではないのかもしれない。
だけど、私の根底には小学生のころから好きだった歴史があるし、私が他の人より伝えられるのは歴史しかないことに、何度自分の深堀りをしてもたどり着いてしまう。
よく言われるように歴史を学んでも即効性はないし、今苦しすぎてすぐ解決したい人には無用の長物かもしれない。お金が稼げるわけでもない。
しかし近年、科学も万能じゃないと言われはじめ、資本主義にも疑問が呈され、一見役に立たないものの価値も見直されている。歴史や哲学、アートなどはその最たるもので、たとえどんなに優れた科学技術で作られたツールがあっても、それを使う人間自身にリテラシーや豊かさがないと真価は発揮されないという話もある。
私は歴史を学ぶ一番の意義は、空間軸と時間軸を広げてくれて視野が広がることだと考えている。
例えば、歴史を語る立場によってものの見方が180度違うことだってあるし、戦争の歴史を見ても善悪二元論は存在しない、長い目で見れば失敗も成功もその瞬間にはわからないし、完璧や唯一の答えなど存在しない。
今では全く考えられないことが常識だったり、理解不能な価値観で動いている人たちがいたりする。そうかと思えば反対に、現代人とやってることは変わらないなと思う人たちもいる。
人類はストーリーだのフィクションだの、イリュージョンだの、そういったものを信じて、その枠の中で生きてきた。自分も例外ではない。現実も自分の解釈やものの見方、思い込みなどから生じているにすぎない。
堅苦しい話ばかりではなく、へーそうなんだと気軽に驚いたり楽しんだりしてもらえるだけで十分なので、自分自身がぶれないようにしたく、この章を書いている面も大きい。
以上、まとめると
歴史を通して、生きるのがラクになる。つまり・・・
①視野が広がり、価値観が変わる。
②あなたの悩みは自分だけじゃないことに気づく。
③自分がここにいることの奇跡と畏怖、諸行無常から、ここにいていいと知る。
すぐに効果はないかもしれない。けれど、伝えていきたい。
それが、私が歴史を発信する理由。
さいごに
「自分語りはNG」というある意味SNS界での「常識」のようなものに捉われていた私を解き放ってくれたNFTプロジェクトがある。
「にゃらてぃぶ=ナラティブ」。つまり語り手が主人公でいいんだと。
私のナラティブで、いつからでも変われることや、世界の見方が変わると人生も変わること、常識や自分自身の捉われに気づくことなどが、伝わればいいなと思って、このプロフィールを書かせていただいた。
さらにこれを機に自分の心に溜まっていたものを文章化することで、ずっと曖昧だった発信の軸も定まったように思う。感謝しかない。
長々とお付き合いいただきありがとうございました。